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Hello! Reds OB「千島 徹さん」
皆さんこんにちは!
浦和レッズ後援会です。
今月のHello! Redsは、
浦和レッズOB千島徹さんです。
千島さんは浦和レッズのアカデミー出身で2000年から2006年まで浦和レッズに在籍されていました。
現在のお仕事や、浦和レッズへの想いを熱く語っていただきました!
◇川越から世界を目指せる選手をどんどん輩出したい
―――現在のお仕事について教えてください。
現在は地元の埼玉県川越市でサッカークラブの経営や運営をしています。レッズでは2000年から2006年の途中までの約7年間在籍し、その後J2の愛媛FCで約3年間プレー後現役を引退しました。現役中、引退後はサッカーに携わるつもりは全く無かったので、指導者のライセンスを取りには行っていませんでした。引退後は洋服やデザインなどの仕事をしたかったので、洋服屋さんでも働きました。
ただ、当時生計を立てるために服屋で働きながらも掛け持ちでサッカースクールなどの手伝いもしていました。
またその後サッカースクールの会場として使用していたフットサルコートが雪の影響で使えなくなってしまい、結果的に1~2年ほどサッカーの世界から離れたこともありました。
いざ再びサッカーから離れ違う仕事をしていくなかで「なぜ自分は今この仕事をしているんだろう、自分が本当にやりたいことってなんだろう」という思いにぶつかるようになりました。
そして悩んだ末、「またサッカーをやりたい」と思っていた矢先、同じ地元川越に住んでいるユース時代の先輩を通して、「川越のサッカーを変えたい」と考えている方と出会いました。
その方が現在のNPO法人の理事長になりますが、サッカーが専門ではなかったため、現場をはじめとするクラブの代表は自分に任せていただき現在の仕事がはじまりました。
―――現在の理事長さんが「川越のサッカーを変えていきたい」と仰っていましたが、川越のサッカーはどのような印象だったのですか?
埼玉県の中で浦和はやはり別格で、ひとつふたつ雲の上の存在でした。僕らの世代の“FC浦和”はめちゃめちゃ強くて全国常連、エリート集団という感じです。川越も少年団のチーム数も多いし決してレベルも低くなく、僕もその環境で頑張っていました。でも、中学に上がるタイミングでいい選手たちは、外(浦和や大宮)に行ってしまいます。
僕が、小学6年生の時にJリーグが開幕し、それに合わせて川越運動公園陸上競技場も建設されました。その時のこけら落としで、初めて浦和レッズの試合を見に行きました。その時に生で見た浦和レッズの福田正博さんに憧れ、「自分もこの人みたいになりたい、プロサッカー選手になりたい、浦和レッズでプレーしたい」という夢ができたことを今でもはっきり覚えています。
―――これからどんな風に川越のサッカーを変えていこうという思いで現在スクールの経営に携わっておられるのでしょうか?
僕は川越でサッカーを始め、浦和レッズというブランド力の高いトップクラブでプレーしていた経験を活かして、今後も指導していきたいと思っています。サッカー少年時代に描いていた夢や目標は、「日本代表やJリーグでバリバリ活躍する」イメージでしたが、そこまでの活躍には至りませんでした。「プロサッカー選手」といった高い目標を持つ教え子たちには僕のようにはなってほしくないので、指導者として自分のサッカー選手での悔しい経験を活かして彼らには活躍してもらいたいと思っています。
僕はサッカーやその他の趣味もそうですが、人とは違うことを好んでいます。
サッカーのスタイルも自由性がある南米スタイルが好きなので、ブラジルやアルゼンチンの様な要素を出すサッカーで川越から世界を目指せる選手をどんどん輩出したいです。
―――指導者として、子供の頃にはサッカーだけをしていた方が良いか、サッカー以外の事にも興味を持った方が良いのか、どう思われますか?
僕は、サッカーで頑張りたいのであれば、芯はブラすことなくサッカーに置いておくけれど、経験や気分転換に様々なことをすればいいと昔から思っています。当時から別分野で活躍する先輩たちにも「他のJリーガーも徹みたいにサッカーだけでなく、音楽とコラボしたり色々なことをすれば面白いのに」と言われていました。
今は少しずつ多様性が尊重される世の中になっていますが、昔はやはりどこか「サッカー選手はサッカー以外やるなよ」という雰囲気がありました。この5年10年で大きく変わりましたね。
僕が子どもたちにサッカーを教える中で大切にしていることは「教えすぎない、絶対に余白を作る。」ことです。0から10までは教えたくないと思っています。ブラジルのサッカー小僧は基本的に誰からも教わらずサッカーを楽しんでいます。ストリートサッカーで裸足でボールを蹴っているので、自由な発想を身に付けています。なので僕は、自分で主体性を持ってプレーすることが本人にとってプラスになると考えています。
時代の逆をいくような選手たちになってほしい。サッカーだけなく“ブラジルだとサンバ”、“アルゼンチンだとタンゴ”のリズム感やイマジネーションはサッカーにつながると思うので、色々なことを経験してもらいたいと思います。
―――三菱重工浦和レッズレディースに所属している塩越柚歩選手は川越市出身です、川越の中ではどんな存在ですか?
彼女と特別に親しくはないのですが、同じ川越出身で共通の知り合いもいるので、レッズランドで一度ご挨拶をさせていただきました。
日本代表に選出されたり、レッズレディースでもチームの中心選手としてご活躍されているので一方的ですが、めちゃめちゃ注目しています。
サッカーだけでなく色々な媒体に出ることがあると思うのですが、そういったところでも「川越のスター・星」だと思います。
川越の女子サッカーも確実に認知度は上がっているので、もしかしたら川越の男女関係なく最高傑作じゃないですか!!!!
◇田中達也と共に腕を磨いたのは、サッカーではなく・・・?
―――浦和レッズアカデミーへの加入のきっかけを教えてください。
当時浦和レッズのジュニアユースは浦和レッズジュニアユースという正式な名前はなく、浦和スポーツクラブという浦和レッズと提携しているチームでした。
他のG大阪(ガンバ大阪)やヴェルディ(東京ヴェルディ)はジュニアユースから、トップチームと同じユニフォームで大会に出ていたのですが、僕たちは赤いシャツに白い字でURAWAと書いてあるだけでレッズのエンブレムをつけることができませんでした。外から見たら浦和レッズのジュニアユースだったかもしれませんが、正式には浦和レッズの下部組織ではありませんでした。
僕の所属していた少年団の監督が浦スポ(浦和スポーツクラブ)の監督と懇意にされていて、6年生の秋頃に「体育館で練習しているからおいで」と言っていただきました。
自分は小学生で相手は中学生だったので、「みんなすごいなあ」と思いながらもどこかで「やってやろう」と一生懸命サッカーをすると、その日の帰りに「加入していいよ」と言っていただきました。
今の浦和レッズジュニアユースはすごい倍率だと聞いていますが、僕はそのセレクションを受けず合格したという感じです。そこからは、ジュニアユース、ユースとお世話になりました。川越からは少し距離がありましたが、レッズの赤いユニフォームを着てサッカーができることは幸せなことだったので、苦なことは何もありませんでした。
―――トップチームに昇格された時のことを覚えていますか?
加入した2000年は唯一レッズがJ2に落ちた年でした。レッズかジェフ市原(ジェフユナイテッド市原・千葉)のどちらかがJ2に落ちるという日、僕は高校3年生で日本代表U-18の合宿に参加していました。
当時、ジェフ市原に所属しており、仲が良かった佐藤寿人と「来年は俺か寿人のどちらかがJ2だね」という話をしていました。レッズの降格が決まった時は、「まじか、来年加入するけど、J2になっちゃうんだ…」という感じでした。
トップチーム昇格は、秋の国体に参加しているときに、ユースの監督から連絡があり知りました。アカデミーの先輩たちは練習参加などはしていましたが、レッズユースから昇格し、プロ契約した選手は僕が第一号です。
―――今だから話せる秘話を教えてください…。
田中達也(現:アルビレックス新潟コーチ)と長谷部誠(現:フランクフルト)とは時間を共有することが多かったです。達也とはよく大宮のラウンドワンでボーリングに行っていました。二人でひたすら手を震わせながら…。最初は僕の方が上手かったのですが、どんどんあいつが上手くなってきて、あまり勝てなくなりました。(笑)
長谷部とは立ち位置的に共有する時間が多い時期がありました。彼が加入してきたとき僕は3年目で監督はオフト監督でした。レッズはスーパースターが多いクラブだったので、なかなかスタメンを勝ち取ることができず、メンバーに入ったとしてもベンチスタートでした。試合当日のメンバー登録が16名で、僕と長谷部は17番目18番目。風邪やイレギュラーに備えてメンバーには入って一緒にアウェイ遠征に連れていかれるのが僕と長谷部、という期間が1年程ありました。遠征に帯同するけれど、当日ベンチに入れず二人でスーツを着たまま上の部屋から見ていて「悔しいね」という話をよくしていました。
対人の練習相手は長谷部が多かったです。自分的には共有する時間が多くてよく話していましたが、今やドイツでも皇帝と言われていますもんね。
阿部ちゃん(阿部勇樹:現浦和レッズユースコーチ)は同じチームではやっていませんが、全く同世代です。中学生の関東選抜が同じだったのと、U-16~18の日本代表でも一緒にやっていたかな。
◇浦和レッズには常に絶対王者のような存在であってほしい
―――今の浦和レッズに対してどのようなイメージを持たれているのでしょうか
レッズアカデミーから輩出される若い選手たちの、コメントや立ち振る舞いがめちゃめちゃプロフェッショナルで凄いなと思います。
僕はユースからの昇格第一号ということもありますが、当時のレッズアカデミーは“プロサッカー選手になるための教育”というよりは、“人間として自立できる選手育成”を謳っていました。なので、僕がユースにいた時よりも、今は“サッカー選手を大切に育てよう”としているから優秀な選手が輩出できているのだと思いました。これもレッズがここまで積み上げてきた結果ですよね。
―――今の浦和レッズの選手たちに伝えたいことはありますか?
全くありません…。
ですが、僕が在籍していた2001年2002年シーズンから結果が出始めてタイトルを取り始めました。なんだかんだ言ってもレッズは強いしタイトルを定期的に獲得しています。絶対王者であり続けることは凄く難しいことですが、レッズには常にそういう存在でいてほしいと思っています。
12歳の頃からレッズに関わっているので、自分の血には浦和レッズの赤い血が流れていると思っています。切っても切れないし常に気にしているクラブなので、やはりレッズには最高のクラブでいてほしい、Jリーグでも引っ張るような王者で常にいてほしいと思っています。
なので、ずっと応援しています。
―――最後に後援会の皆さんにメッセージをお願いいたします。
ご無沙汰しております。選手時代は大変お世話になりました。僕のことを覚えている方がどのくらいいるかわからないのですが、後援会の方たちを含めとても感謝しているので、またどこかでお会いできることを楽しみにしています。
以上千島徹さんのインタビューでした。
千島さんの熱い熱い気持ちが感じられるインタビューとなりました。
近い将来、千島さんの教え子たちがレッズのユニフォームを着て埼スタでプレーすることを楽しみにしたいですね。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。